2012年御翼7月号その1

故佐藤陽二牧師の告別式の式辞(佐藤 順牧師)

 兵学校の教育の一つに「真実を愛する」というのがあった。父は『江田島三一(さんひと)○(まる)分隊記念誌』に以下のように記している。「入校教育三週目の夜『本日、起床動作前に、靴下をはいていた者は、自習中休みに、総員雨天体操場に集合せよ』の達示があった」と。起床動作(寝巻きから着替えて作業服に身をかため、靴を履き、帽子をかぶり、寝室を飛び出す)を2分30秒以内で終えるため、着替えの時間を短縮しようと、父はその日初めて、靴下をはいてベッドに入って寝たという。いつもは「時間に遅れた者は…」であったが、その日に限って、「起床動作前に靴下をはいていた者」が呼び出された。しかも、寝る前に靴下を履いていたかどうかなどは、本人しか知らないのに、驚くほどの数の生徒が集まり、鉄拳制裁を受けたという。人が見ていようがいまいが、「心に恥ずる者は出て来い」ということが江田島精神であった。
 父は、卒業前に終戦となると、負けた悔しさよりも、誇り高き海軍軍人(将校)として生きる道を奪った米国やソ連を憎み、復讐を誓った。その一方で、人生の本当の意味はなんであろうかと、真理を探究した。クリスチャン家庭に生まれた父は、どうせ軍人となって死ぬのなら、洗礼を受けて死のう、とクリスチャンとなってから兵学校に入学していたのだ。そして今度は、真の人生の意味を求めて、聖書を読み始めたのだった。すると、新約聖書ローマ12章19節が目にとまった。そこには、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐するは我にあり』と主は言われる」とあった。これを読んだとき、父の心はやっと平安になり、救われた思いがした。この御言葉を通して神と出会ったのだ。この生ける神を信じ、従って行こうと決意し、やがて牧師となる。
 牧師になり5年経った頃、父は旧約聖書の民数記に出てくる、「神が言われた。女、子どもを皆殺しにせよ」という記述をどう解釈すればよいのか分からず、良い先生を探しに独り、米国に渡った。1966年、貨物船『高武丸』は、金門橋をくぐり、サンフランシスコの港の第22番桟橋に接岸した。そのとき、父のポケットには現金僅か115ドルしかなかった。汽車に乗り、ロサンゼルスに到着し、世話をしてくれると言った日本人を訪ねようとした。すると、「その人と付き合っていると、あなたの信用が失われますよ」とある人から忠告され、あてが外れた。途方に暮れ、独り、東ロサンゼルスの住宅街を歩いていると、白人の老婦人が芝生の手入れをしていた。そこで父は、つたない英語で、「May I help you?(お手伝いしましょうか)」と声をかけた。老婦人は、びっくりしながらも家へ招き入れてお茶を入れ、ピアノで讃美歌を歌ってくれた。窮地から抜け出る秘訣は、人を助けようとすることである。老婦人を助けようとしたことにより、父はかえって励まされた。そして、日系人教会の施設で食事をしていると、「佐藤先生!」と声をかける青年がいた。かつて、ブラジルへの移住者を助けるキリスト教の団体で、父から聖書を教わった人だった。神学校を探していることを青年に伝えると、彼が知っている神学校へと親切にも連れて行ってくれた。そして、日曜日に白人の教会の礼拝に出席すると、翌日、父のもとに教会からある人が訪ねてきた。ビル・クラインという米海軍の従軍牧師で、クライン先生は、「何かできることはないですか」と言う。今度は父に対して、「May I help you?」と言ってくれる人が現われたのだ。父が「名義上の保証人になって頂きたい」とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、これで米国に滞在し、神学校で学ぶ道が開けた。その数ヶ月後、父は私たち家族をも呼び寄せることができたのだ。神学校では父の疑問に対して、ローリン博士という旧約の大家がこう教えてくれた。「旧約には、神の言われたことと、人間が、神が言われたと思い込んだことを、区別しないで、『神が言われた』と書いている。従って、旧約聖書は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたキリストの言葉を中心に読めば、どこが神の言葉で、どこがそうではないかが分かってくる。この解釈ができないと、戦争を肯定するようなキリスト教ができあがってしまうのだ。兵学校で叩き込まれた、真理を愛する精神を神に向けた時、聖書の正しい解釈の仕方へとたどり着いたのだった。
 1957年(昭和32年)、この牛込の地に移り、平屋一階の一軒屋で始まった開拓伝道は、イエス様の約束、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)が真実であることの実験であった。今年55周年を迎える牛込キリスト教会は、その都度、神によって必要が満たされ、イエス様の福音を宣べ伝えている。
 イエス様は、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と言われた。父は自分の栄光を求めるよりも、これらのイエス様の言葉が真実であると体験し、証ししようとしてきた。イエス様は、約束どおり、十字架のあがないによって罪を赦してくださり、神と人のためならば、全ての必要も満たしてくださった。だから、死後の世界も、約束どおり永遠の命が与えられることに確信を持ち、私たちは「死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れない」のだ。

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